タイトルロゴ 「言葉 〜泥の詩人より」
装飾用画像(東家土蔵 壁)

文筆家でもあり、「左官教室」の編集長でもある、“泥の詩人”小林澄夫氏が、挾土秀平との交流や、手がけた仕事について、左官教室「今月の言葉」に綴ったコラム。

08 翔べ! 飛騨の青き蝶よ

文:小林澄夫 氏

を地球規模で考え、そのすばらしさを語り続ける人は、行き惑う挾土秀平の心に、生命の水を注ぐ人でもあった。

私が初めて挾土秀平の仕事を見たのは、高山市内に建設中のある宗教団体の巨大な石造りの神殿を思わせる美術館だった。たまたま懇意にしていた金沢の野丁場(のちょうば)左官の親方が、飛騨で新しい壁を開発した若い左官がいるから逢いにゆくのだが、一緒に行かないかというので、その現場を見にいったのが始まりである。その建築の外部は石造りで、内部はすべて左官の仕上げだった。その塗り壁の面積の多さと様々の仕上げに圧倒されたのを記憶している。その時、秀平はまだ三十そこそこの若者だった。

信州と飛騨を越える安房(あぼう)峠のトンネルが出来る前、飛騨高山へは名古屋から高山本線で木曾川から飛騨川にそって山や谷をめぐる深い渓谷の中をゆかなければならなかった。高山へ来るまでの山の深さに、私はなにか高山がこの世の外の桃源郷のように思われ、飛騨という言葉のひびきに格別な愛着を感じることもあって、その次の年だったか、秀平が江戸時代の文庫蔵の塗替えがあるので見にこないかというので、すぐに出かけた。

その文庫蔵を塗った左官は江戸万(江戸屋万蔵)と呼ばれた高山では有名な土蔵左官で、その江戸万の手になるものだといって、秀平は市内に残っている別な土蔵の観音扉に描かれた鶴と松と日の出の鏝絵を見せてくれた。江戸万は、幕末に江戸で刃傷沙汰をおこし飛騨の高山へ流れてきた左官だと言い伝えられ、この江戸万によって江戸風の観音扉の黒磨き等の土蔵技術が高山に伝えられたという。江戸にいられなくなって天領の高山へ流れてきた土蔵左官の伝説を語りながら、秀平は土蔵の扉に残された江戸万の日の出の太陽のいまなおさめやらぬ赤に見とれていた。

いまおもえば、秀平の現在までの活躍の軌跡には、野丁場左官の息子としてビル工事にもんもんとしていた二十歳代、心の奥底に土蔵左官江戸万の仕事の誇りゆえに人をもあやめずにはいない情熱の火柱の激しさに共感せずにはいれない怒りのようなものを感じていたのかもしれない。

●秀平の心

その次の年、高山を訪ねたのは、高山の隣町久々野(くぐの・当時)の農家の中塗りの剥がれた土蔵であった。それは、飛騨の農民一揆の首謀者が戦い敗れて隠れた土蔵で、町の歴史遺産として保存するための修復現場だった。荒々しくひび割れの入った荒壁の土蔵は当時の貧しい農民の暮しの記憶がこもっているから、その記憶を消してまっさらな新しい壁を塗りあげたら、農民が一揆を起こさざるをえなかったその心情の闇を抹殺することではないかと、秀平はその修復された妻壁の窓まわりに昔のひび割れた荒壁を再現して仕上げるのだった。

アリゾナ・ムーン
(「実演をしながら日本の左官技術の話を」という求めに応じて、アリゾナで行った講演。
小さな小屋を塗り、大津磨きで月を製作。「アリゾナ・ムーン」と称した)

それから間をおいて訪ねると、町中の喫茶店とギャラリーを兼ねた店の十字路に面した大きな壁に、発掘された縄文土器を土で描いて町びとをおどろかせたのだった。秀平のいうには、飛騨は縄文時代から人の住んだ土地であり、その土地の記憶を縄文土器の縄文の紋様に込めたのだという。その壁は、高山の古い街並みの景観を壊したといった景観論争にまき込まれたが、その余燼もさめやらぬうちに、こんどは上宝(かみたから)村(現上宝町)のふるさと歴史館の壁に円空仏を泥で仕上げた。それは円空のナタ彫りの像に似て、荒壁がまだ生乾きのうちに鏝の刃ですばやくヒガキを切り、怒れる円空仏の像を切り出したものである。このヒガキによる円空仏の写しは、美濃に生まれ東日本から北海道まで霊山を求め旅をした円空がいちばん多くの仏様を残した飛騨の千光寺に奉納された両面宿儺(すくな)の像で、両面宿儺は奈良朝にまつろわぬ飛騨先住の民の首長であった。円空の彫った両面宿儺の像は、二面一体の木彫の像で、一面に怒りに燃える憤怒の顔を、もう一面は慈眼あふれる菩薩の顔を彫った像である。秀平はその憤怒の相の両面宿儺を荒々しいタッチで一気に、いまだ乾かぬ荒壁の上に鏝でヒガキを切り、造形した。このヒガキは、左官が荒壁を塗ったあとその上を鏝の刃で上から下ヘと飛び飛びに切れ目を入れていくことで、荒壁の乾きを促進し、次に塗る中塗りへの付着をよくするもので、高山の郊外の農村の土蔵の壁にいまでも見られる。私は、秀平に連れられて丹生川(にゅうかわ)村(現丹生川町)の土蔵のヒガキ跡の残る土蔵をいくつもいくつも見せてもらったが、そのヒガキの跡にはすぐれた書家の書いた書のように美しく魅力的なものがいくつもあって、秀平はこの無名の左官職が切ったヒガキのリズミックな連なりに泥の自然の無垢のエネルギーを感じて心がざわめくのだといった。現代のどんなすぐれた芸術家も、この無名の左官の切ったヒガキのように自然の無垢のエネルギーーを引き出すことは出来まいというかのように。

時の流れの中で人間がくりかえす創造の営みが慣習となり、規則となる。その慣習と規則が職人の技術であり、技術はくりかえされるうちに熟練し、熟練とともに洗練され、当初の創造力を枯渇させていく。秀平はこの雨風にさらされやがて消えていく無名の左官のヒガキの跡に原初の創造の営みを見いだし、それを泥の円空仏に再生したのだ。

アースエッグを青竹に仕込んだ土壁
(2003年には、飛騨の土で作ったさまざまな色合いのアースエッグを青竹に仕込み土壁を製作し、「飛騨・世界生活文化センター」に展示した。 写角=永坂洋子)

そんなことがあって、私は年々歳々高山まいりをするようになった。秀平と一緒に飛騨の現場めぐりをしていると私にも発見することが多々あった。そんな現場めぐりの途路よく見た飛騨の古いクレ葺きの民家もその一つであった。切妻の単純な板葺きの勾配のゆるやかな石のおかれた屋根の美しさはえもいえぬものがあって、そうした古い民家は解体されて、屋根を葺いたクレ板は風呂のたきつけになっているのだと秀平がいう。ノコギリで製材したのではなく、ナタで裂き割った板は雨風に強く、表裏を差し替え、かさねを替えることによって一生もつのだという。秀平はそうした古いクレ板の廃材を集め、クレ板を泥壁に差し仕込み、野菜の貯蔵小屋をつくる。その巨大な松ぼっくりを思わせる野菜小屋をハケ岳に造ったのは、秀平が父親の野丁場の会社をやめて、「職入社 秀平組」として独立してまもなくであった。

●行き行きて行き行く

独立してからは、オーナーやデザイナーから直接仕事の依頼を受けて、銀座の店舗、熱海の別荘、下呂のホテルの化粧壁、金沢の黄金の土壌、TBSテレビのスタジオのデザイン壁、ザ・ペニンシュラ東京の見世場等、私が見た現場だけでも十指に余る。そして、それらの壁の一つ一つはすべて一つとして同じ壁はなく、新しい発想、新しい素材、新しい技術によって創造された壁である。評判がよかったといって同じ仕様の壁を塗ることはなかった。

秀平は同じ壁を同じ技法で洗練していくのではなく、新しい壁を次々と創造し、あとにもどらない。この行き行きて行き行く姿勢は、秀平が京壁の職人のように師匠を持たなかったことからきている。京壁のジュラクにしろ、大津磨きにしろ、漆喰の磨きにしろ、土蔵の技法にしろ、それらの伝統的な左官の高度な技術はすべて独学で学んだ。飛騨の田舎で、野丁場左官を継いで野丁場のビルエ事のモルタル塗りでもんもんとしているとき、左官の業界誌に掲載されたそれらの技法を本から学んだ。本から学ぶということは、いってよければ無から学ぶということであり、その素材集めから始めることであった。京壁の土、大津壁の土を飛騨の山の中に探し、土づくりをし、藁を集め、藁すさをつくり、いままで野丁場で使っていた袋物や缶入りではなく、生の素材を集め、野丁場仕事を終えたあと、夜中にみずから材料づくりをして倉庫で見本塗りを重ねてきた。

●飛騨山人の魂

たぶん、そうした師匠もなく無からの試行錯誤のくりかえしが、師匠のもとや学校で学んだものにはない素材への開かれた深い感受性をつちかったのだといえる。秀平がいま新しい発想で新しい壁を次々と創造しつづけているのは、塗り壁をその原点に帰って学んだということ、奈良時代の寺院建築の塗り壁に始まり、安土桃山の千利休の草庵茶室の土壁を通り、江戸時代の城郭の漆喰から土蔵の磨きへ、そして明治に洋風建築の人造石塗りを取り込み、戦後へと続いてきた塗り壁の千年の歴史を原点へとさかのぼることで、秀平一人の身体の中によみがえらせたといえるのではなかろうか。しかし、ただそれだけならば秀平をして左官の名人の仲間入りをさせただけであろう。秀平を秀平たらしめたもの、秀平の新しさというものは、塗り壁をただ堅牢で長持ちするだけのものとしてではなく、塗り壁は美しくなければならない、人の心を魅了し人の魂をざわめかせるものでなければならないという美への思いであり、その思いを入れる秀平の魂の喫水の深さ、情熱の火柱の大きさにあったのではなかろうか。

秀平の壁が素材の未知の組合せや技法の常に新しい発明であるにしても、その壁を美しく魅力的にしているものは、この秀平の美的想像力である。東京タワーのタワー下のワインレストランの壁に秀平がデザイン・施工した深い夜空色の黒土に青と赤の金箔を稲妻の作製するように走らせた壁に、私は美しく気高く簡素な装飾の空間を見ずにはいられない。その間髪を入れぬ稲妻のラインの地の黒土は、秀平が飛騨の山中深くさまよい見つけたものである。昔高山で塗られていたそのかすかに青みがかった黒土から夏の深く青い夜空の色を想像し、いつか飛騨の夜空色の壁を塗りたいと、時間があれば山に入り、その土を探し求めた。私は、その秀平の想像力を平地人のとうに失った飛騨の山人の魂にあるのではないかとひそかに思っている。

●青き蝶よ!

六年前、秀平は高山市内に残っていた大正初めにつくられた西洋館をもらい受け、それを移築再建するために円空仏で有名な千光寺の山すその山林に千七百坪の土地を買った。敷地はみずからの手で雑木山を切り開き、西洋館の基礎や土留めコンクリートを打ち、西洋館へのアプローチの石積みも自分たちの手で石工顔負けの見事な石垣を組み、まわりの庭もみずから作庭し、飛騨の数百種にいたる山野草や樹々を植えた。そして西洋館の敷地の結界にはギフ蝶の食性の樹をまわりに植え、やがて秀平がみずから名づけた歓待の西洋館が出来上がるころには美しいギフ蝶が舞うのが見られるだろうという。

ふるえる線、ざわめく色……。木や風や土の自然の時の流れの中で人の手によって引き出された自然の無垢のエネルギーによって飛騨山中に生まれた歓待の風景……青き蝶よ!

(月刊「さかん(左官)」編集長)

「秀平さんの塗り壁を高山市内で見る」

建物の外壁や奥まった室内……、高山市内にある仕事の足跡を訪ねる。営業中の店舗や、屋敷蔵もあるので心したい。

高山市 地図

  1. 「富士屋 花筏」花川町四六
  2. 「ことのは」上三之町七九の二
  3. 「ギャラリー&カフェ遊朴(ゆうほう)館」上一之町二六
  4. 「飛騨高山テディベア エコビレッジ」西之一色町三の八二九の四
  5. 「荏野(えな)文庫」江名子町一二九〇
  6. 「上宝(かみたから)ふるさと歴史館」上宝町本郷五八二の一二
  7. 「飛騨・世界生活文化センター」千島町九〇〇の一
  8. 「東家土蔵」久々野町無数河七二五

■09 今を決めたあの時 「 豊饒 」を塗る左官職人 へつづく■

赤い線

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