タイトルロゴ 「言葉 〜泥の詩人より」
装飾用画像(東家土蔵 壁)

大宅壮一ノンフィクション賞した作家、吉永みち子氏が、新幹線車内誌「 ひととき 」著した

09 今を決めたあの時 「 豊饒 」を塗る左官職人

文:吉永みち子 氏

「 セメントの中でもがきながら気がついた。
       やっぱり土がやりたい、自分の思うような生き方をしなきゃダメだと 」

壁をデザインするという発想は、かつての左官にはなかった。自分の足で集めた土と天然の素材で壁に「 風景 」を生み出す挾土の独創的な仕事は国内外で注目を浴びている。
ひたすらセメントを塗る毎日から自然への回帰。きっかけは、昔の知人の仕事を目にしたことだった。

飛騨高山の山麓にある「 職人社 秀平組 」の工房。一階の作業場には風が吹き抜け、急な階段を上がった二階のアトリエ兼事務所には石油ストーブがひとつ。それでも一向に寒さを感じないのは、土壁でできた大きな机と壁一面の作品の見本が放つ地熱のような熱気のせいなのか、それとも挾土秀平の放つオーラのせいなのか。

総理官邸の壁

次代ごとの国民の喜怒哀楽が何層にも圧縮されたような総理官邸の壁、夜空に吹き上がる手筒花火の炎が二十八メートルの吹き抜けに舞い上がるザ・ぺニンシュラ東京の壁・・・・それぞれの見本に塗り込められた思いを、無口な職人のイメージをひっくり返す豊かな言葉で挾土は語る。

2001年に秀平組を立ち上げて独立してから、彗星のように現れたスーパー左官、左官の達人、左官を超えた左官、壁を壁芸術に高めた男 ― 挾土秀平を飾る言葉は数知れず生まれ、その才能を求める都会からの注文は引きも切らない。だが、挾土の名が初めて世に出たのは、実は今から二十五年前。
1983年の技能五輪全国大会の左官部門で優勝した時だった。高卒初、左官の修業を始めて二年一カ月の最短記録でのチャンピオンは話題になった。父親が「 挾土組 」を起こした左官で、幼稚園の寄せ書きに「 さかんになりたい 」と書いた挾土の滑り出しは、極めて順調なはずだった。
「 中卒で修業を始めた同年代からは三年遅れで、出場資格が二十一歳までの技能五輪では挑戦のチャンスは一回だけ。熊本の建設会社で修業したんだけど、生まれて初めて勉強した。大学ノートに聞いたこと、感じたこと全部書いて、大会のことしか考えていないイヤなガリ勉っていわれてた。だから優勝した時は、達成感はあったよね。でも、チャンピオンになってから何ひとついい事はなかった 」

天才だと持ち上げられ、自分でもそう思った。オレはチャンピオンだぞという誇りとプライドが、二十一歳の青年を覆い尽くした。
「 水戸黄門の印籠みたいに、心の中でつい出しちゃうの。だんだん邪魔だな、なければよかったって思うようになっていくんだけどね 」
熊本から名古屋に移ってさらに腕を磨き、故郷の飛騨高山に戻り、親の会社に入った。二代目だからやがて後を継ぐ。考えるまでもない当然の道だった。その道をチャンピオンの錦の御旗を掲げて歩きはじめてから、会社を辞めるまでの十四年間を語る挾土の言葉は思い切り沈み、眉間には深いシワが刻まれる。

俺は無敵だという勢いで戻ってきた若い跡取りにとって、社内に渦巻く人間関係の軋轢は想像を超えていた。その頃はバブル期でもあり仕事はどんどん入った。大きな仕事を取ってきても、人を出してくれない。勝手に集めろとそっぽを向かれる。最初は、きっと自分を育てようとしているのだと思ったが、しだいに理不尽な仕打ちだと腹が立ってきた。社長である父親に相談しても、なあ頑張れ、我慢しろとしか言わない。上等じゃねえかと意地になると、ますます孤立する。利益上げりゃ文句ないだろうと、セメントの壁を塗っては鬼のように厳しく代金の取り立てに回る毎日は、次第に挾土の気持ちを蝕んでいった。 「 ストレスで髪の毛が抜けたり、めまいがしたり、動悸が激しくなったり、吐き気がしたり・・・・。でも、オレは二代目だしさ。会社を辞めるなんてことは考えることさえできなかった。 」

唯一の救いは、夜中に大音量で聴く矢沢永吉だった。
「 ギーンというエレキの音は急ブレーキかけて破壊してくれるようだったし、あの声は切なかったし、なんか心に溜まったものをぶっ壊してもらえるような気がしてた。真っ暗な中で聴いていると矢沢の息遣いが感じられるようだった 」
すがれるのは矢沢の音楽だけ。矢沢の世界に逃げ込んで、会社も仕事も人間関係もつかの間忘れることで、自分もまた息をつぐ。そんなある日、「 左官教室 」という業界誌にひとりの男の紹介記事が出ているのを発見した。原田進。その名前に覚えがあった。この瞬間が、大きな転機の歯車が回り始めた時なのだが、挾土は全く気付いていなかった。

熊本での修業時代。同期が、別の会社で修業している面白い人がいるよと紹介してくれた三歳年上の人が、原田だった。
その時、「 挾土君ってすごいね。チャンピオンになって 」と原田は言い、「 そんなことないよ 」と挾土は口では謙遜した。
「 その後、原田さんは淡路に行って、日本の左官業界を変えたカリスマと言われた久住章さんのところに弟子入りして、土の世界で頭角を現してきた日本のエースと紹介されていた。
あの原田さんがこんなすごいことになっている。トンカチで頭を殴られたくらいのショックを受けました。原田さんは、白の世界で輝いているのに、俺は真っ暗闇をさまよってただ塗っては金を取り立てる毎日。俺だって最低だと思った。くやしくて、雑誌を見ることができなかった。見ると傷つくから 」
そもそも挾土にとっての左官は、セメントを塗ってビルを造ることで、左官に土壁を塗る世界があることすら知らなかった。 「 そういえば土蔵って左官の仕事だなあと思ったくらい、わからない世界だった 」

かつて自分を凄いねといった原田が自由に思いを表現して評価されている。" 土 "に心が動いた。でも、今さら関心を持ったって十年遅れてしまっている。チャンピオンのプライドが、動きかけた心にあわてて蓋をした。愛読していた「 左官教室 」も読まなくなった。
読みたくない。でもやはり気になる。出張仕事に行くとき、バッグの中に雑誌を詰めて電車に乗った。電車の中で思い切って開いてみた。すると、原田の寄稿した文章が目についた。
「 原田さんが書いていたこと、よく覚えてます。自分は今、土佐漆喰の磨きをやっていて、壁がだんだん光ってくる、その時に宇宙の木を感じるって。それで最後にね、でもきっと同世代の人も頑張っているんだろう。それは名古屋の挾土君、って書いてあったの。またまたビリビリッとショックを受けた。あまりの情けなさに吐き気がしてきた 」

それから二年間悩んだ。そして土をやろうと決心した。
「 土を始めるってことは、レベルの低い自分を見られることだから。塗り方もわからないし、土に藁を混ぜることもわからない。あまりに基本を知らない。とにかく飛騨の山できれいな土を集めようって思った。それで、嫌で嫌でしょうがない会社の一角にあったボロボロのプレハブを片付けて秘密基地を造って、そこでひとり修業を始めた。昼間ビル塗って、夜中に練習するの 」

しかし、土の面白さに目覚めれば、余計に昼間の仕事が辛くなる。それでもなお、二代目の運命を捨てることはできなかった。一度刷り込まれた後継ぎの役目は、見えない糸のように挾土を羽交い絞めにしていた。

そんな苦しみの中、原田の存在によってやっと開いた土の空気口から辛うじて呼吸しているような挾土の元を訪れた人がいた。一歩も動けない挾土をトンカチで叩き、電流を流した「 左官教室 」の編集長の小林澄夫だった。

挾土は集めた土で塗った見本を見せた。すると小林は、その色を誉めた。
「 土の色がきれいでしょって見せただけのレベルなんだよね。でも、すごい色だね。いい色見つけたね。飛騨の土には力があるねって。そんなことを誉めてくれる人だった。荒んだ人間関係の中で、初めて誉められて、うれしくてうれしくて。小林さんにまた喜んでもらいたくて頑張れた。もっといい色見つけたら、また来て誉めてくれるんじゃないかって思ったの。雑誌に今月の言葉って連載してて、これが素晴らしいの。オレ、全部暗記したもの。なんて豊かであったかくて、やさしいんだろうって涙が出たよね 」

チャンピオンのプライドも捨て、たった一人で土と向き合う挾土の孤独は、たまにやってくる小林の存在で支えられてきたが、土の世界を知れば知るほど、挾土の苦悩は和らぐどころか深まっていった。耳鳴りはますますひどくなり、ついには耳が聞こえにくくなり、昼間見るものから色が消えモノトーンになっていた。
そこまで身体を追い込んで、やっと二代目の縛りを自ら切り、独立する踏ん切りがついた。
「 会社辞めるって言ったら、おやじは一カ月ぐらい寝込んだけど・・・・思う生き方ができないなら死んだのと同じだって俺は思ったから。潰れるかもしれないけど、それでもいいやって。三十九歳の時。会社に入って十四年目だった 」

退職金で土地を買い、秀平組を作った。五人の職人がついてきてくれた。いい仲間とあれこれ思いを語り合いながら結束して仕事をしたい。夢はあったが、電気も水もなくて、発電機を回してジャンパー襟を立てて見積もりをした。自由は手にしたものの、得た自由を生かす道が見えない。そんな挾土にひとつの注文が来た。
挾土の闇を支えてくれた小林が「 左官教室 」に二十年連載した分をまとめた『 左官礼讃 』という本が出版されることになり、有志がお祝いをしようと考えた。
「 八ヶ岳に、お前のセンスで小林さんが喜ぶような野菜収納庫を造ってくれという注文でした。お金はないけど自由はあったからね。小林さんの言葉を思い出しながら考えた。原風景を大切に・・・・儚いものほど美しい・・・・存在しているけどいずれ消えていくものがいい・・・・これみよがしに自己主張するのは強制的で高圧的で見苦しい・・・・ 」 出来上がったのは、生きているクヌギの木を柱にして、水と土と藁と板きれで造った松ぼっくりのような野菜蔵だった。木は生きているから、変化する。葉はやめになり、水や土や藁はやがて朽ちて大地に戻り、何事もなかったかのように元の風景に戻る。

この作品は、日本ばかりか外国でも評判になった。『 世界で最も不思議な建造物 』という本に紹介され、久住は「 秀平はとんでもないやつだ 」と語り、当の小林は「 これに名前をつけることはできない。ただ風であり、声であり・・・・ 」と書いた。
一歩も動けなかった場所でもがき苦しんだ挾土の十四年間、夜中にひそかに育てた思いを吐き出した作品は、まさに挾土そのもの。その挾土の才能を評価し、仕事を発注したのは東京の施主だった。
「 東京の人はありがたい。ただオレの仕事を見て、縁もしがらみもないところでチャンスを与えてくれる。どんな空間なのか、どんな人が、どんな風に過ごすのか、あらゆることを想定するの。相手が喜んでくれるストーリーを懸命に考えてノートに書く。オレ、アーティストじゃないから。相手に応えるのが職人だから。何か言葉で左官やってる感じ。様々な言葉の中からイメージがフワーって湧き上がってくる。でも最近、肩書なんかどうでもいいような気がしてきたなあ。どんどん自由になって・・・・ 」
挾土が大好きだという宮沢賢治の『 春と修羅 』。唾し歯軋りして叫ぶ挾土の修羅は、冷たい冬の塊の中に棲み、激しく春の暖かさと自由を求めている。それが挾土の壁に力を与えているとも言える。
ストーブの上のヤカンから立ち上がる湯気の音だけが聞こえてくる工房で、最後の言葉の語尾が消えた。しばらくして、「 楽になりたいけど、でも、まだ自分の中に何かある 」
と呟くとふっと眼が虚空に泳いだ。

自分の中に凝り固まった呪縛や憎悪や後悔の冷たい塊がまだ残っている辛さか、それが消滅してしまうことへの一種の怯えか、どっちだろうと視線の先をあわてて追いかけたが、煙草の煙と混ざり合って消えてしまった。

■10 水を塗る左官職人・挟土秀平 へつづく■

赤い線

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