タイトルロゴ 「言葉 〜泥の詩人より」
装飾用画像(東家土蔵 壁)

文筆家でもあり、「左官教室」の編集長でもある、“泥の詩人”小林澄夫氏が、挾土秀平との交流や、手がけた仕事について、左官教室「今月の言葉」に綴ったコラム。

01 泥と種もみ

文:小林澄夫 氏

東家土蔵

飛騨の久々野に土蔵が修復された。久々野は高山市内を流れ神通川となって日本海にそそぐ宮川と木曽川に合流し太平洋の伊勢湾に流れる飛騨川の分水領を背後にひかえた山合いの村である。

私がこの土蔵を初めて見たのは、この春地元の若い左官職人 挾土秀平さんにつれられて、泥仕舞の風情のある土蔵があって、その修復を頼まれているので見ないかというのが始まりである。

その土蔵は、間口二間、奥行き一間半の平入りの泥仕舞のいかにも野の土蔵といった素朴な土蔵であった。漆喰を塗るでもなく、妻の牛棟の端には、泥で家紋と覚しき井桁の模様がレリーフしてあって、窓まわりの下半分あたりから中塗の泥が剥げ落ち、あらあらしいひび割れの入った荒壁がむきだしになっていた。そんな田舎の忘れられたような土蔵が修復されたのは、その土蔵が有名な江戸時代の飛騨の百姓一揆の首謀者(義民)をかくまったという歴史を秘めていたからであった。

それがこの秋、挾土さんから電話があって、この土蔵で不思議なことがあったという。なんでも、土蔵の中塗りを始めたころ土蔵の戸前の地べたから稲が生えて来て、実をむすんだのだという。この土蔵の修復はすべて古い土蔵の荒壁の泥を落し、その泥に新しい切藁を入れて塗りなおしたのだという。それでその藁に着いていたもみから稲が生えたのではないか。それにしても水を引いたわけでもなく、肥料をくれたわけでもない土蔵の戸前の前の土場にしぜんに生えたひとかぶの稲の穂に、不思議を感じたのだという。年貢米にこと欠いて蜂起した安永の百姓一揆の首謀者が隠れたこの土蔵の前にひとに踏まれることもなくすくっと株立ちした稲穂が黄金の身を結んだということに、泥と稲と土蔵と一揆を結ぶ因縁を感じたのだという。

私はひそかにその稲穂は200年前の種もみから芽吹いたのだと、土蔵の荒壁のひび割れた泥の中にまぎれこんでいた種もみからよみがえったのだと思っている。飛騨のいち左官職の泥への思いが200年前の種もみをよみがえらせたのだと・・・。泥にくるまれた土蔵の内部はアジールであり、敗れたもの、追われたものの逃げ場所であり、癒の空間ではなかろうかと、ふっとそんなことを、私は思った。

いま土蔵は秋の陽をあびて、ひと株の黄金の穂とともに久々野の野に立っている。野の土蔵の良きかな。過酷な年貢に苦しみながらも近在の爺さん、婆さん、女子供まで集って泥だんごを手わたし、荒打ちしたその思の姿で、新しくよみがえったのだ。 良きかな、野の土蔵は!

■02 笑う泥壁 へつづく■

赤い線

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