2001年、職人社秀平組を結社して、
実に8年が過ぎようとしている。
当時の自分は 20年もの間、
毎日毎日セメントの世界に生きていて、この独立を機に、
新しい生き方をしたい!
もちろん
自分が左官であることを 変えることは出来ないにしても、
その目を《土》へ向けることで、
少しでも人間的で、より自然に近い生き方をしてみたい・・・。
この絶対的不変な土は、
おのずと、その土地の歴史や環境に自分をみちびいて、
それは単純でありながらも、奥深く、
多様な色調と表情に、心を洗われたり、癒されたり・・・・
自分は、
そんな土壁にゆっくりと、確実に引き込まれてきたように思う。
そんな8年間の中で、
今をしても新鮮に思える仕事のひとつに、
八ヶ岳南麓の【マツボックリの野菜蔵】がある。
・・・飛騨の山村。
廃墟となった古民家の軒下に積まれたクレ板。
煙と時に黒くすすけて、雨や風に削がれた一枚の木板。
それらのクレ板は、
どれひとつとっても 同じかたちのものはなく、
ねじれ、ゆがみながら一群をなして、
誰もいない山あい、
穏やかな日差しを受けた 伸びたての雑草の中に、
数千枚でひとつとなってうもれていた。
それから・・・八ヶ岳へ・・・。
あたり穏やかな自然農の田園の広がる、
八ヶ岳の山麓の斜面で・・・。
そこにあった1本の曲がったクヌギの前に立ったとき、
自分は、まだ見ぬマツボックリの野菜蔵のフォルムが、
わき出るように見えてきて、
その一瞬にイメージできた事が思い出される。
マツボックリはワークショップとして呼びかけて、
全国から集まり、
真夏のひざしの中で、現地の土や竹をつかい、
そこで出逢ったひとたちの手で、それは自分でも、
まるで運命づけられたかのような姿として 形づくられて、
参加した者が皆、
何かにつき動かされているような高揚感を漂わせていた。
それを小林氏はこう書きつづっている。
>『・・・・そう、この3日で生まれた、
不思議な奇跡に近い建物に名前を付ける事は出来ない。』
『マヤの古謡の唄うように・・・・。
ただ、 風であり 声であり・・・・
という無名の言葉を捧げるしかない。』
このマツボックリから以降、
我々は東京を中心に、全国で徐々に新しい壁の表現のチャンスを与えられてきて、そのひとつひとつには、十分に納得ができているし、世の中からも、あまりある評価を受けて、感謝という以外にはない。
しかし自分の感覚の中では、
このマツボックリがもつ、なにか不思議な・・・・
それは存在感なのか? 生命力とでもいおうか?
これまで生み出してきたどんな表現も、
マツボックリの野菜蔵そのものが 発している特別な空気に、
勝る事の出来ないことを、いつも比較しながら考えてきた。
・・・今年に入って、二月。
御岳山のふもとで、雪を塗るという、
新しいチャレンジをする機会があった。
この【氷雪の壁】のイメージは、
制作前から自分の頭の中で鮮明に描けてはいたものの、
寒さという慣れない自然環境を相手に、
たいへんな苦労をしたが、
マツボックリとは真逆な
世界観と繊細さをもちながら、
その結果は、不思議に同じ存在感と空気を放っていた。
この2つに共通して言えるのは、
素材そのもので独立して風景に立ち、その風景に同化した、
柔らかくて強烈でいて・・・・
はかない美しさを宿している。
それはかつて自分が願っていた、
虫や動物の作る巣のような自然さ・透明感を感じるのだ。
つい最近、小林氏との会話の中で・・・・
『お前は今、ひとつひとつをクリアして変化し、
更なるお前流の世界を進もうとしている。
そうだね、考えてみると・・・・・・・
秀平は、あのマツボックリで「土」となり、
それから6年が経ち、
あの氷雪の壁を生み出した事で「水」へと
変わったのかもしれない!』strong>
そう、地・水・火・風・空、の水へと進化した
そんな言葉に、この数年。
自分の全てをかけて取り組んでいる洋館の建設は、
いまや左官の枠を一歩越えた、総合的な枠組みへと広がって、
山林の開拓をし、大地の造成に始まり、
樹や石や草花と向き合い、
現在7分通りの出来栄えを見せて進行している。
この間を振り返ると、
それらが何かしら、水に翻弄され、
水を生かして成り立ってきたようにさえ思えていて・・・・。
『お前は、水になったんだよ。 いいね、まさに水だね…』
その言葉が、何度も何度も、心の中で繰り返されていた。
ちょうど2週間ほど前、なるほど・・・と思える、
ダーウィンのこんな言葉を知る。
>『厳しい環境の中で生き残ってきた者は、
強いものではなく 賢いものでもなく 変化できたものである・・・・』
かつてない、
厳しい時代の真っ只中、
自分達が、どう進めばいいのかは、まだわからない。
しかし新たな目標となるのは、
土を経てさらに、《水の集団》へと変化してゆく意味に
とても重要なヒントが潜んでいると、わかり始めている。