もう、どうにも、
気持ちがおさまらなくなって
この古い、日記と写真を、
数日間かかって、やっと探し出した。
【2001年8月26日 記 】
やられた、やられてしまった。
・・・・ああ、終わったなあって・・・・・
やる気がなかったり、力がなかったのではない、
地域社会の中で、
いまや、我々《 職人社秀平組 》は、《 よそ者 》。
それ以前から外されていたというか、
発注者側からいえば、
金銭的に合意できれば誰でもよく、
同業者的には秀平組に仕事はさせたくない・・・・・・
様々な立場と、
それぞれの思惑が侵されず、
着地点が形式的に満たされれば、
情熱なんて邪魔なものでしかない。
大げさかも知れないが
仰向けに倒れたあと、空や風ってこんなふう? と、眺めている
目の前の風景から自分が消されて、
音さえ立てられず
風のように流れ、薄れてゆく・・・・
【 万蔵の死 】
ここで、飛騨に実存した、
江戸屋万蔵という 伝説のスーパー左官を紹介したい 。
過去帳にあること(*1)と、
言い伝えとで前後の事情を記すると、
万蔵は、
駆け落ちした僧大年と石屋の妻を追うように頼まれ、
平湯方面へ向かい安房峠で追いついた。
この二人を連れ戻そうとしたが、
向こうは駆け落ち者が二組になっていた。
一人に四人である。
散々にやられて負傷して帰り死んだのが真相らしい。
其後、駆け落ち者は捕縛され、
事件の落着するまで死体は埋葬されていた事のようだ。
裁判の結果、
大年は打首、万蔵を切った清次郎は追放になったと伝えられている。
後、弟子達が墓を善応寺山に造ったが、
いつの間にか素玄寺山に移されたのだとの事。
万蔵の死後、
全くの他人が跡目を継ぎ、
現在神田菊造と名乗って長坂で大工をしておられるが、
ただ万蔵の墓を守っているだけで記録も全くない。
【 江戸屋万蔵 】
江戸屋万蔵は、
江戸から高山へ移り住んだ左官の名人であるが
何年頃、何歳で高山に来たかは、全く不明である。
称讃寺過去帳にも、
死亡年齢が書いていないので、なおさら困った問題である。
駈落者の追手となって
平湯方面へ向かった事などから察すると、
よぼよぼの老人でなかった事だけは確かで、
たぶん、四十代の壮年ではないかと思われる。
言い伝えによると、
万蔵は何かの事情で人を斬り江戸を逃げ出し、
この山中の町に身を隠した、
生まれは神田だと自称していたそうである。
高山に於ける住所もわからない。
ただ前後の事情から想像して、
空町の善応寺の近くであったらしい程度である。
万蔵は江戸式の土蔵の塗り方と型を高山へ伝えた左官で、
扉の裏の「もこう」型や鉢巻の型等を残し、
また、半浮彫の絵(漆喰彫刻)を壁に塗り出す実に立派な腕を持っていた。
この浮彫の遺物は現在、
上二之町小森家の土蔵と
空町助六橋畔川上別邸の土蔵とに残っている。
両方とも扉の裏の装飾で
前者は向かって左は松に鶴、右は荒波に朝日である。
後者は向かって左が老松、右が鶴である。
どちらも半浮彫で彩色がしてあり、
今は大変痛んでいるが、
こんなに立派な作品は、高山ではこれ以外に見る事が出来ない。
この土蔵は二つとも旧川上家の所有であるから、
川上家へは、よく出入りしたものらしい。
荏名文庫の土蔵も遺作の一つで、
その頃では入手困難だった京都の黄土で、
上塗りをしたものだそうである。
左官の名手、伊豆長八(明治初期)より、
四十年位も前に、
こんな名手が飛騨へ入った事は注目すべき事である。
万蔵の直弟子に平野久次があり、
善応寺下にすみ同所に鼠色の土蔵を残しているが、
万蔵得意の浮彫の技は、とうとう万蔵一代で終わったらしく、
その後、弟子たちの残したものは、見当たらない。
今から150年前、
江戸の神田で人を殺めて飛騨に来た一人の左官職人、
粋でハイカラな流れ者。
【 万蔵の遺作 】
県指定文化財、荏野文庫蔵。
そんな万蔵の遺作の150年ぶりの修復の仕事が、
自分に巡ってきたのは1997〜1998年の春だった。
ボロボロのプレハブ小屋の中、
前会社でひとり土壁の独学を始めていた俺は
まだ、わずかにバブル景気が漂う飛騨にあって、会社上司からは
会社の跡取りが、好き勝手なことをやって、
セメントではなく固まらない土など触っている、と、小言が聞こえていた。
そんな中で、
この荏野文庫蔵の修復は、自分のこれまでの成果を試す、
絶好の場であったし、なにより江戸屋万蔵を
直接感じ取れる喜びに夢中になって情熱を燃やし、
昼、夜と、
仕事感覚をこえて、復元作業が嬉しくて仕方がなかった。
当時、会社組織のなかで、十数年、
腐りきっていた自分を人間らしい気持ちにさせ、
奮い立たせてくれる土という新しい道筋を、やっと見つけだしていた
それは、万蔵というスーパー左官をどれだけ肌で感じとれるか?
そんないきさつを含んだ、この修復は俺の出発点であった。
・・・修復中、地元の同業者からは、荏野文庫蔵 の作業を
公開しないとは何事だと
クレームをつけられ、それならと、公開の案内状をだして、
朝から休日に待っていると、見に来たのは、たったのひとりだけ・・・・
飛騨の中で自分は、完全に孤立していた
そこには、およそ3カ月間、万蔵と自分だけの時間が流れていた。
会社の片隅で積み重ねてきた経験と、小林氏の言葉を経て、
膨れ上がってくる万蔵への想いと孤立感。
当時、ひとの言葉は、もはや聞こえなくなっていた。
その分、時代を超えて・・・、萬蔵の感覚や考え方が、
伝わってくるというか
通信しあっているような不思議な気分が、俺の中にあった。
残されている万蔵のわずかな記録と、
しかし確かに実存していた現実。
木の国、飛騨に、スーパー左官がいたという喜び。
もっと知りたい、
もっと想像を働かせることのできる手がかりはどこに?
それが旧川上別邸の土蔵、万蔵の残した最後の土蔵であった。
この頃、
この土蔵は、古い長屋の共同の倉庫として扱われていて、
さほど注目もされておらず、土蔵への出入りは自由だった。
土蔵の扉は基本として、左の扉を閉めてから右の扉を閉める
そうしないと、ぶつかるようにできていて閉じることができない。
俺は、頻繁にこの土蔵の扉の前に立つと
たびたび左右が逆に閉められているから、それを直し
上記、【 後者は向かって左が老松、右が鶴 】を、
からぞうきんで掃除し、寸法を測り、万蔵のコテ跡を眺めていた。
・・・・そこには、たぶん? ではなく、
まず、間違いない!
万蔵のコテさばきから感じられるスピード感
見切りの速さ、
角度の鋭さと切れ味。
サラリと生きた線から推測できるセンス
おそらく絶妙な色に対する執着心を持ち合わせた
・・・粋な美意識を持っていたに違いない。
そんな折、
高山市が旧川上別邸の土蔵の寄付を受け、
その復元を検討すると言う新聞記事を見た。
その時から、また夢中になれると、
その記事を切り抜いてファイルし
どれほど夢を膨らませてきた事かわからない。
川上土蔵の外観は、
一見、白壁だが、実は微妙にネズミがかった、
白土と藁と石灰の上塗り仕上げ。
あきらかに真っ白な漆喰ではない、外観の仕上げの選択は、
万蔵のセンスなのか、
それとも単なる予算のなさからの選択なのか解らない。
早速、こんどは、万蔵を推理して、俺流の実験が始まっていた。
ところがそれ以降、
この土蔵は、自分の思いとは違う方向に進み始める。
気がついた時には、
川上別邸の江戸萬の土蔵には足場が架けられ、
シートに覆われていた。
今、万蔵の血や肉とも言える壁が削ぎ落とされているのだ・・・・。
正直、余りの悔しさに、
その付近に近寄る事さえ出来ない俺。
伝わる話しによれば、
都市計画課から、地元工務店に単独発注され
それを知った左官が工務店に取り入り、
・・・ハイ契約の、シャン、シャン、シャン・・・
土蔵修復は終わり
純白の漆喰(しっくい)で、
新しくもまぶしくなってよみがえってしまった。
絶妙な角度も、
切れ味も、
いまや別物となって消えてしまった。
持ち前の技能の発揮や追求ではなく、単なる消化である。
そして、聞くに耐えない衝撃的な修復の噂。( 書くに耐えない )
そして今、扉は施錠されて見ることも出来ない。
・・・・・夜中になると泣けてきた。
ただ、どうしても納得できない残念として思う事は・・・・
競合する事さえ出来なかった事。
工事がいつ行われるという事も知らされず、見積もりすら出せない、
挑戦する事すら出来ないシステム、地域社会、
何もまったく知らぬ世界の話しであったこと。
江戸屋万蔵の最後の土蔵も、
一般にある庶民の蔵もまったく同じ扱いであった現実。
自分には単なる、漆喰(しっくい)の、
塗り替えとして消化したとしか見えない。
万蔵は二度死んだといっていい。
関わった人間に、
江戸万に対する思いの丈と、
施工に於ける配合や考え方を、どう苦心し、
その技能と心をどう感じ、何を得たかの結果を、
せめて熱く聞かせてもらいたい。
ある意味で・・・・・・・・
ゆっくりと燃えて、
やっと真っ赤になった火種に水をかけられたような
なんだか見事にバッサリと切られて、遠くなってしまった・・・・
伝説や歴史・・・
そんな意識まで夢のように覚めてしまった感じがある。
ポッカリと穴が開いて、
残っていたものまで、こぼれてしまった。
ドンドンと薄れてゆく故郷・・・・飛騨高山。
自分に残っているものは、荏野文庫蔵の体感と
解体前の、川上土蔵の実測と写真、
・・・・そして拾い集めた、その上塗りの削ぎ落とされた、万蔵のかけら。
・・・・ああ、終わったなあって・・・・・
未来に向けて、
まったくのゼロから
新しい自分を始めるしか、なくなってしまった気分である。
・・・・・・・・つづく。
*1 高山市称讃寺過去帳記録
釈西生 弘化三午年八月十二日 江戸屋万蔵
右、万蔵義、善応寺舎家大年と申す僧、
石屋兵吉女房と密通致し申合せガマダ道かけ落ちいたし候.
某追手に万蔵参り候
処其道に而古川町清次郎と申す者に切られ、家に帰り一両日わづらい死去す。
然る処御役所よりけんしの御役人 御改之上右世話中丸いけに致置候処来る未十二月御役所より早速死がい取置致貰ひ候様万蔵親類のものへ御沙汰に付親類右の□□参り候に付丸いけのままにして取置いたし候依而法名西生と遺す。
あまり長きこと古略す。(原文の通り)